乳房の役割と言葉の変遷を大マジメに考える 「母の印」から「エロス」へ【呉智英】
「日本語ブーム」の今、見落とされてはいけない「日本語の真実」
◾️「垂乳根」の本当の意味
巨乳の女性が年齢をとると、どうなるか。重力に抗し切れず、垂れてくる。老いとは残酷なものだ。
「垂乳根」という言葉がある。母の代名詞のように使われ、また、母にかかる枕詞でもある。落語の『垂乳根』は、お屋敷勤めの上品な女性を嫁にもらった長屋暮らしの男が困惑する話だ。新妻は母の話をする時にも枕詞を欠かさず「垂乳根の我が母は」とやり出すのだ。
この「垂乳根」、なぜ「垂乳根」なのか。こう問うと、ほとんどの人が、子供を何人も産んで乳房が垂れてしまうから「垂乳根」だと答える。
大型の辞書を見ると、いくつもの語源説が紹介されている。そのうちの一つに、確かにそういう説もある。そして、現代人にはその説が納得しやすい。現代人は、先にも書いたように、乳房を性愛の対象として強く意識する。若い女性のエロチックな乳房、それに比し、育児と結びついた老いて垂れた乳房、という構図がそこに読み取れる。
しかし、「垂乳根」という言葉が成立した古代は、現代とは精神的背景が同じではなかったはずだ。乳房は性愛の対象であるよりも、新しい生命を育むものという側面が強かった。そうだとすると、「垂れる」のは乳房ではなくて乳汁でなくてはならず、乳をしたたらせて子供の恵みとするから「垂乳根」だと解釈した方が自然だということになる。
1960年代まで、バスの中で胸をはだけて赤ん坊に授乳する若き母親の姿を、いくらでも目にしたものである。
※呉智英 著『言葉の常備薬』(ベスト新書) より抜粋
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